2009年06月25日

1937年7月7日の蘆溝橋事件

アジアでは、1937年7月7日の蘆溝橋事件以降、日中間の戦争状態が続いていた。日本は阿部信行内閣当時、ヨーロッパの戦争への不介入方針を掲げたが、同内閣総辞職後、松岡洋右ら親独派が中心に1940年9月、日独伊三国軍事同盟を締結し、枢軸国側に立つ事になった。1941年12月8日(JST)、日本海軍機がハワイの真珠湾を攻撃した事で、日本とアメリカ合衆国が参戦。12月9日には中華民国が宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。さらに12月11日にはドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告。戦争は世界的規模で戦われるようになった。

1942年中盤までは、枢軸国が有利だった。ドイツ軍はヨーロッパの大半及び北アフリカの一部を占領。大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃していた。日本軍も東南アジアから中部大平洋の島々を広範囲に占領し、日本海軍機動部隊はインド洋でも交戦した。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍がアメリカ海軍に敗北。1943年2月にはスターリングラードでドイツ第6軍が敗北。以降は連合国側が優勢に転じ、同年5月、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。7月にはイタリアが連合国に降伏。アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。さらに1944年6月、フランスに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を強めていった。
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太平洋では日本は占領していた島々をアメリカ軍に攻撃され、1944年7月にはマリアナ諸島のサイパン島がアメリカ軍に占領された。これにより、日本本土の大半はアメリカ軍の新型戦略爆撃機B-29の行動範囲内に含まれ、首都東京は同年11月から空襲の被害を受けるようになった。

1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻。同年4月30日、ナチスの指導者アドルフ・ヒトラーの自殺。5月2日のソ連軍によるベルリン占領を経て5月8日、ドイツが連合国に降伏。日本はその後も戦い続けたが、同年6月にはアメリカ軍は沖縄を占領。8月6日に広島、8月9日には長崎に原子爆弾がB-29から投下された。さらに同日、ソ連が日ソ中立条約を破棄して参戦。中国北東部・満州や朝鮮半島北部、南樺太へ侵攻してきた。日本は1945年8月15日に降伏。日本の降伏をもって第二次世界大戦は終結した。

2009年06月10日

白旗伝説

ペリーは浦賀来航の際に幕府に旗を二本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明。高麗環文書では、「開国か降伏か」を迫る文書を同時に渡したとされる。二本の旗のうちひとつは白旗であり、降伏の際に用いる旗であると説明されていたという。ただし同文書に記載された内容は当時の状況と矛盾する点が多く、日本史の専門家からは一部の人を除き偽書と判断されている。

ペリーの『日本遠征記』によると、2度の来航で100発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃っており、日本側史料には、これが大混乱を巻き起こしたことが記録されているが、いずれも被害は無く、実戦は行っていないはずである。ところが、1月16日に結集した「ポーハタン」以下七隻の内、蒸気船二隻と帆船三隻が安房国(千葉県)洲崎を砲撃した、と日本側の古文書にある。
頭痛
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事件は嘉永7年1月23日(1854年2月21日)丑の下刻、洲崎を警護する備前岡山藩陣地への砲撃であった。艦船の砲弾は陣地の手前10メートルほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行って大砲5門を以って砲撃、蒸気船二隻は逃走したが、帆船三隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300名ほどが死傷したが、三隻を「御取り上げ」(拿捕)した。しかし、この事件は2月1日(2月27日)の記録を最後に途絶えている。また、他に一切の情報が無い為に、文章の信憑性が疑われている。

2009年06月06日

古くは浮世絵のような偉大な祖先につながっているのが

古くは浮世絵のような偉大な祖先につながっているのが、現在までの日本のイラストレーションである。このイラストレーションという呼び名が日本に定着したのは、ほんの最近の事であり、早川良雄、粟津潔、灘本唯人らが土壌をつくり、1960年代に宇野亜喜良、横尾忠則、和田誠らが活躍し、イラストレーションの市民権を獲得することに成功した。そこには既に文章に従属した挿し絵というニュアンスを大幅に超えて、独立した美術表現としてのイラストレーションという分野の確立が打ち出されていた。
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イラストレーションは1960年代に一大ブームを形成した。当時はグラフィックデザイナーを兼任していたイラストレーターが、独立した職業となるのは1970年代以降であり、分業化されて拡大した日本のデザイン業界がその背景にある。高度経済成長などの経済力に支えられたマスメディアの許容する日本のイラストレーション表現の多彩な発展ぶりは、その高度な技術的水準から、1970年代後半からは世界中から注目されるまでになった。

2009年04月23日

馬廻

馬廻(うままわり)は、戦国時代頃に生まれた武家の職制のひとつ。騎馬の武士で、大将の馬の周囲(廻り)に付き添って護衛にあたったり、伝令や決戦兵力として用いられた。平時にも大名の護衛となり、事務の取次ぎなど大名の側近として吏僚的な職務を果たすこともあった。

大名家によって様々な呼び名があり、後北条氏の馬廻衆が有名である。織田信長の馬廻衆は、小姓と並んで土豪の次男・三男などから編成され、信長の側近として活躍した。信長の馬廻・小姓の精鋭は赤・黒二色の母衣衆に抜擢され、そこから部隊の指揮官に昇進した例も多い。

江戸時代も諸藩に職制として存続し、大名の日常の警護を務めた。江戸幕府の職制では、両番と呼ばれる書院番・小姓組番が諸藩の馬廻にあたる。旗本の子弟はまず両番に任ぜられ、将軍の側近として認められて幕府官僚として出世してゆく例であった。

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馬廻は、諸藩にあって職制のほか、家格の呼称としても使用されることが多かった。

藩によって、馬廻には、馬上資格を認める藩と、認めない藩があって、どちらが一般的であるかは、断言できない。

馬廻に馬上資格を認めない藩にあっては、給人または、給人席以上を馬上資格としたり、家老から直接、統率を受ける家格以上の侍(家臣)を馬上資格とするなどさまざまな基準があった。

職制上及び、家格上、給人と馬廻が併存する藩と、どちらかだけが存在する藩もある。家格に給人と馬廻が併存する藩にあっては、給人のほうが格上である。

馬上資格がない馬廻は、幕府の小十人とほぼ同義であって、藩主に謁見資格があるが、馬乗りにはなれない中堅家臣である。

また馬廻に馬上資格がある藩では、馬廻の家格は、広義の上級家臣の下位を意味すると言えよう。元禄赤穂事件で有名な赤穂藩浅野家の馬廻役がその典型的な例である。馬上資格のない中小姓の上位に位置する馬上武士の階級と位置づけられていた。赤穂浪士四十七士のうち馬廻だった者は堀部安兵衛武庸・近松勘六行重・冨森助右衛門正因・潮田又之丞高教・赤埴源蔵重賢・孫大夫重盛・矢田五郎右衛門助武・大石瀬左衛門信清・早水藤左衛門満堯・間喜兵衛光延・中村勘助正辰・菅谷半之丞政利・不破数右衛門正種(浪人前)・千馬三郎兵衛光忠・木村岡右衛門貞行である。全員が200石から100石取りである。重臣とまでは言えないものの上士と呼べる家禄の者たちである。これが馬上資格のない中小姓だと最上の大高源五でも30石取りであるからこの階級差は歴然である。

2009年04月19日

パルティアが征服した領域

ギリシア人ポリス
パルティアが征服した領域、特にメソポタミアなど西部には多数のギリシア人ポリスが存在した。これらのポリスはセレウコス朝以来自治組織を持っており、また伝統的に親セレウコス朝、親ローマの政治傾向が強かった。パルティアの政治闘争の中でしばしば現れる親ローマ派の勢力の支持母体となっていたのがこれらのポリスであった。このためセレウコス朝やローマとの戦争の際に敵となりかねないこれらのポリスは、同時にパルティアにとっては文化・経済の面では必要不可欠な存在でもあり、パルティア首脳部の頭痛の種となっていた。

ポリスの自治はパルティアによる征服初期にはセレウコス朝時代からほとんどそのまま継続されたが、長期に渡るセレウコス朝やローマとの戦争を通じて、パルティアの指導者達はポリスの自治権縮小を追求した。最大の転機となったのは紀元前6年にローマの支持の下で即位したヴォノネス1世と、アルタバヌス2世との間で戦われた内戦である。この内戦ではギリシア人ポリスの大半がヴォノネス1世側に加担したが、最終的にアルタバヌス2世が勝利に終わった。これ以後パルティア内でのギリシア人の政治的地位が著しく低下し、ギリシア人ポリスの自治権も失われた。

文化
パルティアは征服の過程でヘレニズム文化圏を広範に支配下に納めた。この結果、初期には旺盛なヘレニズム文化の継承者となった。ギリシア語はアラム語と並んで共通語として普及し、パルティア王達はギリシア文化の保護者を名乗った。

このように初期には各地でギリシャ風の美術、建築が行われたが、その度合いは地域によって大きく異なっている。ヘレニズム文化の中心地となったのはギリシア人の居住が多いバビロニアであり、セレウキアなどの都市はパルティア時代に入ってもなおギリシャ文化の一大中心地であった。

南トルクメニスタン(パルティアナ)でも都市ではギリシア様式の芸術が多数みつかっているが、ギリシア人の絶対人口が少ないこの地域ではヘレニズム文化は極めて限られた都市部に集中していた。パルティアの農村地帯は研究が少ないが、現在知られている限り、パルティアの発祥地ともいえるパルティアナでは、農村部にヘレニズム文化が普及することはなかった。バクトリアなども含め、東方領土では早い段階から現地文化が強く現れはじめ、ヘレニズム文化との折衷様式が普及した。

宗教
ゾロアスター教やミトラ教信仰が盛ん。ミトラ教は帝政ローマにおいて、兵士の間で流行する。

軍事
パルティアは遊牧民が政権中核を構成した国家であり、弓と馬の扱いに秀でていた。そのため軍隊の主力にも軽装騎兵を採用しており、機動力を生かした戦いを得意としていた。軽装騎兵は槍や剣ではなく弓で武装し、一定の距離を保ち矢を放って敵を苦しめた。軽装騎兵を効果的に活用するためパルティアは接近した白兵戦につながる会戦をできるだけ避け、戦闘になっても会戦で決着をつけようとはせずにすぐに退却した。退却するパルティア軍は追撃する敵に逃げながら矢を放ち、その損害に敵が浮き足立ったり高速移動に敵の戦列が対応できずに戦闘隊形が乱れると、取って返して再び攻撃した。こうした戦法は特にパルティア独自のものではなく、スキタイ、匈奴、モンゴル帝国といった遊牧国家の戦争に共通したものであるが、ヨーロッパに古典文明を伝えたローマ帝国が本格的に対峙した遊牧民勢力がパルティアだったため、ヨーロッパ人にとって遊牧民の戦法は、パルティア的なものとして記憶されるようになった。

このようなパルティアの戦い方から逃げながら馬上から振り返りざまに打つ矢のことを「パルティアンショット」(Parthian shot) と呼び、現代では転じて「捨てぜりふ」の意味になった。馬上の弓術は、パルティアの後継政権であるサーサーン朝の皇帝の狩猟図像などに記録されているものを、今日でも見ることができる。

シャープール2世のパルティアンショットによる狩猟図像
マルトース テノール ショート セント エピロ フリンジ デネボラ ジャケツ モモアク ラウンド ドナー シニフィ きたひろ パンフォス デポ最新 ライス バラスト ワンレン ジュニ キメラ マスド ギブス スカブラ アーティ マーメイド ミサリー リンガイ マザー メーソン ウショウ ダイス ピンナップ ノック ランボ ノッポ プロフ あめだ スクラム インタ ヒップ スタイル シャベル ミール スポンジ ハティ アイホール リナム ハッスル サタン アフロ


歴代の王
アルサケス1世 (前247年 - 前211年)
ティリダテス1世 (前246 - 前211? アルサケス1世との同一人物説や、暗殺してアルサケス1世にとってかわったなどの説がある。)
アルサケス2世 (前211年 - 前191年 かつてはアルタバヌスと呼ばれていた。)
フリアパティウス (前191年 - 前176年)
フラーテス1世 (前176年 - 前171年)
ミトラダテス1世 (前171年 - 前138年)
フラーテス2世 (前138年 - 前127年)
アルタバヌス1世 (前127年 - 前124年)
ミトラダテス2世 (前123年 - 前88年)
ゴタルゼス1世 (前95年 - 前90年)
オロデス1世 (前90年 - 前80年)
名前不詳の王 (前80年)
名前不詳の王 (前80年 - 前70年)
シナトルケス (前77年 - 前70年)
フラーテス3世 (前70年 - 前57年)
ミトラダテス3世 (前57年 - 前54年)
オロデス2世 (前57年 - 前38年)
パコルス1世 (前39年 - 前38年)
フラーテス4世 (前38年 - 前2年)
ティリダテス2世 (前30年 - 前26年)
フラーテス5世 (前2年 - 4年 フラータケスとも)
ムサ (前2年 - 4年 フラーテス5世の母であり妻)
オロデス3世 (6年)
ヴォノネス1世 (6年 - 12年)
アルタバヌス2世 (10年 - 38年)
ティリダテス3世 (35年 - 36年)
キンナムス (37年)
ヴァルダネス1世 (40年 - 47年)
ゴタルゼス2世 (40年 - 51年)
サナバレス (50年 - 65年)
ヴォノネス2世 (51年)
ヴォロガセス1世 (51年 - 78年)
ヴァルダネス2世 (55年 - 58年)
ヴォロガセス2世 (77年 - 80年)
パコルス2世 (78年 - 105年)
アルタバヌス3世 (80年 - 90年)
ヴォロガセス3世 (105年 - 147年)
オスロエス1世 (109年 - 129年)
パルタマスパテス (116年)
ミトラダテス4世 (129年 - 140年)
名前不詳の王 (140年)
ヴォロガセス4世 (147年 - 191年)
オスロエス2世 (190年)
ヴォロガセス5世 (191年 - 208年)
ヴォロガセス6世 (208年 - 228年)
アルタバヌス4世 (216年 - 224年)

2009年04月04日

張出(はりだし)

張出(はりだし)とは大相撲の用語で、番付の欄外に四股名が載ること。また、これから転じて将棋の順位戦で前年度休場者をクラス定員の枠外として扱うこと。

もともと大関・関脇・小結は東西に1名ずつで計2名と決まっていたが、近代になってその地位にふさわしい成績を挙げた力士がいた場合は東西1名ずつにこだわらないようになった。しかし、番付表の作成に当たっては慣例として、通常の部分には東西1名ずつしか載せなかったため、同じ地位に3人以上の力士が出た場合、通常は長方形である番付表の枠を出っ張らせ、3人目以降はその部分に四股名を載せるようになった。それが番付表から「張り出して」見えるため、その部分に載った力士のことをそれぞれ「張出横綱」「張出大関」などと呼ぶようになった。それに対して、通常の部分に載った力士は「正横綱」「正大関」などと呼ばれた。同じ地位の中では「正?」が上位、「張出?」が下位である。

「横綱」の文字が番付に出るようになったのも、1890年(明治23年)3月、張出大関に回されることを不服とした初代西ノ海嘉治郎をなだめるためのものだったとされている。

大正ごろまで、興行上の都合から、人気力士や有力な後援者を持つ力士を正位におき、実際の実力上位者が張出にされることもしばしばあった。この様な時は、張出の実力者の四股名をやや大きめに書き出すことで、「別格」の意味合いを持たせてバランスを取ったとも言われている。

また、公傷制度が適用されていたころの一時期には休場した力士は同じ地位の張出とする規定があったため前頭以下も番付表から張り出されたこともあった。戦時中にも、兵役についたために本場所の出場が不可能な場合も欄外に張り出したことがあったが、これは軍の機密にふれるということで、1942年(昭和17年)1月場所から記載されなくなった。

横綱大関 [編集]
大関不在時に横綱力士が「横綱大関」としてその地位を兼ねるが、この時「横綱大関」となるのは正横綱である。例えば1981年(昭和56年)9月場所では、東横綱大関北の湖、西横綱大関千代の富士、東張出横綱若乃花という番付だった。正横綱が大関の地位を兼ねるのに、下位であるはずの張出横綱がそうではないのはおかしいのではないかという声もしばしばあがり、「横綱大関」経験者の中にも腑に落ちなかったという言葉が残る。また、1955年(昭和30年)1月と3月には、4横綱1大関という時期があり、その時の順位は、東正横綱、西正横綱(「横綱大関」ではなかった)、西横綱2番手(張出ではなく正規の欄内に書かれた)、東張出横綱という順位だった。

その他 [編集]
1994年(平成6年)7月場所より同じ地位に3人以上の力士が出ても番付表から張り出さず、通常の部分に連記されることになった。現在の制度としては「張出」は存在せず、「小結・2」・「関脇・2」や「小結2枚目」・「関脇2枚目」と呼ばれている。しかし、昔からの相撲ファンは今でも、同じ地位で最上位の力士を「正?」、次位以降の力士を「張出?」と呼んでしまう場合がある。

スキミン ソーター ブロッキ レニア ツーリング ナスカ イジェクト ビッグ カット 管弦楽団 ユース イブ日本 バンコ ゾーニング フルスピ モンテ サクラ キット モメンタム スラング 波間 ヒロポン ハシソウ プレース ジャル めんだ トラベラ パロディ タイプ オーバー ウィグ パキラ そらち ダラー シロッコ バーベナ ダーク フリー スーツ マウス ネクタ ネチズ ヨット バリ デリン ブルーデー フェルト イーブン ブライ にしままい


2009年03月20日

九州特急「あさかぜ」と関係する急行列車群

戦後・急行列車復活 [編集]
1947年(昭和22年)4月 東京駅 - 門司駅間に夜行急行列車5・8列車運行開始。
1948年(昭和23年)7月1日 東京駅 - 広島駅間に呉線経由の臨時急行列車2003・2004列車を運行開始。
1949年(昭和24年)9月15日 東京駅 - 姫路駅間を運行する夜行急行列車41・44列車運行開始。
1950年(昭和25年)5月11日 急行41・44列車を呉線経由で広島駅まで運転区間を延長。同時に列車番号を22・23列車に改める。
1950年10月1日 22・23列車に宇野線宇野駅発着編成を東京駅 - 岡山駅間で連結。現在の「サンライズ瀬戸」に相当する列車となった。また、急行5・8列車の運行区間を東京駅 - 博多駅間とし、列車番号を37・38列車に変更する。
1950年11月8日 急行列車に列車愛称を与えることとなり、以下の列車に列車愛称が与えられた。
東京駅 - 博多駅間を運行する急行37・38列車:「筑紫」(つくし)
東京駅 - 広島駅間を運行する急行22・23列車:「安芸」(あき)
「安芸」の名称については、それ以前にも広島鉄道管理局独自で「ひばり」の愛称がこの列車に付けられていたが、「鳥類の愛称は特急に付ける」ことを原則としていたため、本社の指導で変更させられた。
1951年(昭和26年)4月1日 大阪駅 - 博多駅間に1往復の臨時急行列車が運行開始。
1951年9月15日 「安芸」の宇野駅発着編成を分離独立、「瀬戸」とする。
1952年(昭和27年)9月1日 大阪駅 - 博多駅間運行の臨時急行列車が定期列車に格上げられ、「げんかい」と命名。
1953年(昭和28年)3月15日 「げんかい」、東京駅 - 大阪駅間を延長し、東京駅 - 博多駅間の列車となる。また、「筑紫」の運行区間を鹿児島本線経由東京駅 - 鹿児島駅間とする。
1953年6月20日 「げんかい」に食堂車を連結。
1954年(昭和29年)10月1日 急行「阿蘇」の混雑を解消するため、同列車の東京駅 - 門司駅間で併結していた「高千穂」の併結相手を、「げんかい」に改める。
1955年(昭和30年)7月1日 「げんかい」の表記を漢字書きの「玄海」に変更。
1956年(昭和31年)4月1日 「玄海」に三等寝台車を連結開始。
スイート ビジブル 神の蔵 梅最適 ノマド 天空の城 ほない スポー メセナ ノーブル ルピア レシピ ビーエル ナビサド インテーク オーバー ベックス イッシュー ムラグ おのいして ガーベラ バターケ ピッチ リアフレ デルレイ ソシオ ひるぜん ストロ ビジョナリー ミブーツ デポジット フレッ シンフ マザー ウルク たつごう キヨス モルツ トゼブラ シェルタ マホメ ふたみ せっさ マヌカン レクチン クロヨン プラグ ナッシ トーチ リョウ

九州特急「あさかぜ」の設定とその経緯 [編集]
1956年(昭和31年)11月19日 このときのダイヤ改正により、以下のように変更。
東京駅 - 博多駅間に、日本における第二次世界大戦後初の夜行特急列車として「あさかぜ」を運行開始
それまで運行されていた急行列車群の運転系統を以下のように変更する。
従来、東京駅 - 佐世保駅駅間を運行していた「早鞆」(はやとも)の博多駅以西を廃止する形で「筑紫」を運行開始。
それまでの鹿児島駅乗り入れの「筑紫」の列車愛称を「さつま」に変更。
東京駅 - 博多駅間運行の急行「玄海」の運行区間を変更。京都駅 - 博多駅間の夜行急行列車とした。(山陽本線優等列車沿革・「あかつき」の沿革も参照のこと。)

九州特急設定の経緯と過程 [編集]
元々、「あさかぜ」の運行に際しては、それぞれ昼行列車であるが、東海道本線で運行していた特急列車である「つばめ」・「はと」と、山陽本線運行の「かもめ」の所要時間を合算した17時間30分を目安に設定したとされる。

ちなみに「つばめ」・「はと」は、本改正時で全区間電気機関車による牽引に改めて東京駅 - 大阪駅間を7時間30分、「かもめ」は京都駅 - 博多駅間で関門間を除き全区間蒸気機関車牽引で10時間40分で運行されていた。この17時間30分は単純に重複する京都駅 - 大阪駅間の所要時間を除いた時間であった。
また、戦前の「富士」は1944年(昭和19年)の運行末期には東京駅 - 博多駅間は20時間3分として設定されていたが、この所要時間では当時すでに22時間程度で運行されていた東京対九州急行列車群と遜色が無くなってしまった。
しかし、その運行時間が問題となった。理論上、考え得る時間帯は以下の通りであった。

「かもめ」の設定時にすでに検討されたとされる山陽特急の東京駅乗り入れ不可の代替。つまり、「かもめ」上り方始終着駅である京都駅、または大阪駅で東京駅方面の夜行急行列車「彗星」・「明星」に接続するダイヤを1列車にまとめる。この場合、設定された時間であると深夜に東京駅を発つ形になり、東京圏での利用が期待できない。
戦前の「富士」のダイヤでは午後東京駅出発し、出発日内に大阪駅に到着。翌昼博多駅に到着するダイヤを組んでいた。この場合では22時間程度で運行していた急行列車群の内、山陽本線を夜行列車とする列車群と大差がなかった。また、東海道本線部分では当時の「つばめ」・「はと」の内どちらかを延長する形とするか、特急の続行運転の形となり、また山陽本線で夜行急行列車を追い抜く形となり、不効率となる。
夕刻に東京駅を出発。関西圏を深夜帯に通過し、翌朝博多駅に到着。しかし、この際に関西圏の扱いをどうするかという問題が生じる。
「あさかぜ」のダイヤを決定する際に上記の3案の内第3案を採用したのは、すでに関西圏を無視してでも東京対中国・九州圏を直通する需要が認められたことや、航空機の深夜便「ムーンライト号」の存在があったためとされている。しかし、関西圏を深夜に通過させる事に対しては、当然ながら同地区からの反発を招いた。これに対する推進派の中には、「大阪が反対するのなら、大阪駅は通さず同駅北を通る北方貨物線を経由してでも運転する」という強硬論者もいたという。

結局、関西始発の九州方面急行列車「玄海」・「天草」を同時に登場させるということで、関西側が折れる事になった。また深夜ではあるが、京都駅・大阪駅・神戸駅では客扱い停車をする事になった。

関西圏を深夜に通過するダイヤはほとんど例のない設定であったが、東京 - 九州間のビジネス利用に最適な時間帯設定となり、下記のような編成でありながら高い乗車率を達成するという成功を収めた。後に、この東京 - 九州間の夜行特急列車群を「九州特急」と称する事となる。

ちなみに、当初は「富士」を使用する予定とされていたが、富士山の麓に近い富士駅付近を通過するのは夜間・早朝に掛かり見づらいことから、「特別急行列車」という点を意識し「朝に吹く風」というさわやかなイメージをもつ「あさかぜ」に決まったとされる。

2009年03月05日

子供をおとなしくさせる類似の生き物はホハン

アゼルバイジャン 子供をおとなしくさせる類似の生き物はホハン(khokhan)
ブラジルとポルトガル 聞き分けのない子供を脅すという同目的の類似の生き物が存在し、「袋の男」(ポルトガル語: homen do saco)と呼ばれる。サンタクロースのように袋を担いだ成人男性で、浮浪者のようななりをしていて、悪い子を集めて売り払う。子供が聞き分けのない時に、「袋の男」を呼んで持っていってもらうように子供に言う。類似の怪物にはビチョ・パパオ(bicho papao、食獣)もいる。
ブルガリア ブルガリアでは行儀が悪い子供には、黒い恐ろしい化け物のような男「トルバラン」(Торбалан、Torbalan、袋を持った男)がやってきて、さらって大きな袋に詰めると言われる。スモリャン州のある村では、「タラスム」(Таласъм、Talasam)と言う名の毛の生えた黒い幽霊の如き生き物が、納屋の陰や屋根裏に棲み、夜な夜な子供を脅すと信じられている。
チェコ共和国 ブバク(bubak、怖いもの)ハストルマン(hastrman、案山子)がチェコでのブギーマンである。トルバランのごとき袋を持ち子供を連れ去る類人である。しかしながら、成人も連れ去り、川の土手に隠れ軽率な人をおびき寄せるために、迷子の赤子の泣声のような音をたてる。満月の夜に機織りをし、盗まれた魂のために服を作り、猫の引く車に乗る。
デンマーク デンマーク版はブッセマンド(bussemand)。寝台の下に隠れ、寝ない子供を持ち去る。英語と同様、鼻水を意味する俗語でもある。
フィンランド フィンランド版はモルコ(Mörkö、フィンランド語)またはモラン(Mårran 、スウェーデン語)。モランはムーミン(原作はフィンランド語)に出てくるものが有名であり、恐ろしい暗い青色の大きな幽霊のような生き物である。
ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

フランス フランス版はクロックミテーヌ(le croque-mitaine、手袋噛み)。
ドイツ ドイツではシュヴァルツェマン(Der schwarze Mann、黒い男)かブッツェマン(Butzemann)。黒は皮膚の色を指し示すのではなく、箪笥の中、寝台の下など、子供たちが夜間に恐れる暗いところに隠れていることを示す。また子供のゲームで"Wer hat Angst vorn schwarzen Mann?"(黒い男を怖がっているのは誰だ)というものがある。
ギリシャ ギリシャ版はバブラス(Baboulas)。いろいろな場合があるが、たいていは寝台の下に居る。
ハイチ ハイチでは、ブギーマンは巨大で、よい子の所へくるクリスマスおじさん(Tonton Noel)の相方。よくない子供を拉致し袋詰めにすることで名が高い。当地のクレオル語での名はトントン・マクート(Tonton Macoute、麻袋おじさん)。
ハンガリー レーズファスー・バゴイ(Rézfaszú bagoly)。言葉の意味は、銅のペニスのフクロウ。よくないことをした子供を脅すのに使う言い回しは、「銅のちんちんのフクロウがお前をさらっていく」。
インド インドでは各地で異なる名前がある。
北インド 子供たちは、捕獲した子供を入れる袋(bori)を持ったボリバラ(Bori Bara)が来ると脅される。類似のチョーンキ・ダール(Chownki Daar)は寝ない子供を持ち去る夜警を指す。
南インド タミル・ナードゥ州では、二つ目玉のテライ・カナン(Terrai Kannan)かポーチャーンディ(Poochaandi)が来ると脅される。アーンドラ・プラデーシュ州での相当版は、ブチュドゥ(Buchdu)。
イラン ペルシャ文化では、行儀の悪い子供たちは、ルル(lulu、????)が悪い子を食べる、と脅される。ルルはたいていルル・コルコレ(lulu-khorkhore、全部平らげる怪物)と呼ばれる。この脅迫は、たいていちいさな子供たちに食事を食べさせるのに使われる。
イタリア イタリア相当版はウオモ・ネロ(l'uomo nero、黒い男)、背が高く、黒い上着、黒い頭巾か帽子で顔を隠す。時に、親はいかにも誰かがドアを叩いているかのように食卓の下を強く叩き「さて、どこぞにスープを飲まん悪い餓鬼がいるか知っている黒い男がきたぞ」という。この黒い男は、子供を食べたり傷つけたりはせずに、ただどこか不思議な恐ろしいところへ連れ去るのみである。多くの子守唄では一ヶ月間子供を隠すとなっている。黒色はファシズムを連想させるので、黒い男という語は大人の政治風刺でも用いられる。1980年以後、皮膚の色が黒い人たちを意味するnegroにneroがとって代わったので、人種主義者による風刺にも用いられる。ほかには、カルタゴの将軍であるハンニバル(Hannibal)も使われる。ハンニバルは古代ローマの最大最強の敵とされていたので、ローマの文化の重要なものとなった。ローマに対する脅威はあまりにも大きかったので、その恐怖心はながらくイタリアに残っていた。かつては「お行儀よくしなさい。そうしないとハンニバルがきてさらっていってしまいます」というのが悪童をしつけて矯正する手段とされており、今日においても同様である。
日本 なまはげが子供たちに怠けず泣かずと警告する。なまはげ柴灯(せど)まつりでは、村民が仮面をかぶり、なまはげに扮する。かつては「むくりこくりの鬼」が来るという脅し文句もあり、一般には元寇にちなんでいるとされる。
メキシコ エル・ククイ(el Cucuy)。社会学教授マヌエル・メドラノが言うには、ククイは小さな亜人間で赤く光る目があり、箪笥の中か寝台の下に居る。メドラノは「ある伝承では暴力の被害者であった小さな子供とされており、…、生きてはいるが、生きてはいない」という(Xavier Garza’s 2004 book Creepy Creatures and other Cucuys.からの引用[6]。
ノルウェー Busemannen
オランダ Boeman
フィリピン Pugot Manu (イロカノ語地域のみ)
ポーランド シレジア地方などでは、子供はバボク(babok, babok, babok)という古くからの民話にある類似のもので脅される。
ケベック カナダにおけるフランス語圏のケベックでは、「7時の男」(Bonhomme Sept-Heures)が7時頃に家庭を廻り、寝ていない行儀の悪い子を洞穴へ連れ帰り、ごちそうにする。
ルーマニア ルーマニア相当版はバウバウ(Baubau)。この話で親は行儀の良くない子供を脅す。
ロシア 多くの場合、寝台の下に隠れているといわれているババイ(Бабай、Babay)が子供を寝かせる若しくは行儀をただす目的で使われる。ババイはタタール語で老人の意。ババイは袋あるいは怪物を持った老人で、行儀を良くしないと連れ去られると子供たちは言われる。
スコットランド 元祖に加え、近世になり、バークとヘアが同業者として名を連ねるようとなった。
スペイン エル・ココ(El Coco)は、大人が子供たちを怖がらせ床につかせるために用いるスペイン語圏における一般的なお化けである。親のおやすみの言いつけに背いた子供を食べてしまう。容姿は不細工で、話によっては毛むくじゃらの怪物とされている。プエルトリコやラテンアメリカのいくつかの国ではエル・クコ(El Cuco)と変化しており、メキシコではククイ(Kukui)、キューバではココリカモ(Cocorícamo)、ペルーではククフォ(Cucufo)と呼ばれている。両親は子守唄を歌うか詩を語ることによって、子供たちが眠りにつかないと、エル・ココがきてお前たちを食べてしまうぞと警告する。子守唄としての最古の事例は17世紀のフアン・カシェス(Juan Caxés)によるものである。その後、現在までの長い年月の間に変化してきたが、オリジナルの意味合いは変わらずに保持されている。類例としてオンブレ・デ・サコ(袋をもった怖いおじさん)、ロバチコス(子供さらい)、ティオ・サインがあり、これらも子供を怖がらせて言うことを聞かせるために使われる。
スウェーデン スウェーデン相当版は「寝台の下の怪物」を意味する「Monstret under sangen」か、黒い男を意味する「Svarta mannen」。
スロベニア スロベニア相当版は「Bavhav」。特定の形はない。男性とも、人間ともされないことが多い。妖精の一種とも魂ともされる。
スイス スイス相当版は「Boogg」であり、春の祭りの際に重要な役を果たす。これは冬と死の象徴であるので、チューリッヒ市のゼクスロイテン(Sechselauten)の祭典では、Booggの像が焼かれる。
トルコ 悪い子供を篭に入れて食べるために洞穴へつれ帰るドゥンガンガ(Dunganga)の古い子守唄がある。
ウクライナ ウクライナ東部にはロシアの影響があり、ババイと呼ばれる。ロシアを参照。
ヴェトナム 「ong ba bi」(北部、言葉の意味は「三つの袋の人」)あるいは「ong ke」(南部)は、行儀の悪い子をなだめすかすのに、また食事を食べさせるのに用いる。

大衆文化
ブギーマンを取り扱った作品としてよく知られているものには、レイモンド・ブリッグズの『いたずらボギーのファンガスくん』(Fungus the Bogeyman)などがある。

ヴィクター・ハーバートのオペレッタ『おもちゃの国の赤ん坊たち Babes in Toyland』(1903年) を映画化した1934年の『玩具の国』(Babes in Toyland) では、犯罪者がブギーマンの国へ流される。ブギーマンは、恐ろしい毛の生えた巨大な歯で生きたまま人食いをする生き物として描かれる。

AC/DCは1995年のアルバム『ボールブレーカー』で『ブギーマン』という題の曲を録音した。

スティーヴン・キングの短編『ブギーマン』は、家族をブギーマンに殺された男が精神科に助けを求めに来る。1986年から1991年にかけて放送されたアメリカのアニメシリーズ『ザ・リアル・ゴーストバスターズ』では、ブギーマンが悪役として度々登場する。

1993年のティム・バートンのアニメーション映画『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の悪役としてもブギーマンは登場する。ブギー(Oogie Boogie、ウーギーブーギー)は大きな麻袋の姿をした賭け事の大好きな無法者の怪物で、その正体は袋の中に入っている無数の虫であった。1999年のディズニーテレビ映画、『ベッドの下はふしぎの国』(Don't Look Under The Bed)の主役フランシス・ベーコンはブギーマンの冗談に晒される。彼女は空想の友人、ラリーの助けを求める。テリー・プラチェットの『ディスクワールド』ではブギーマンという名の、背の高いひょろ長い有毛の、何となく猿のような生物が登場する。彼らは理由無く寝台の下、扉の陰、箪笥に隠れるが、ブギーマンの一人が言うには、これは子供を邪悪から守るためである。

1978年のジョン・カーペンターのホラー映画「ハロウィン」およびその続編には「ブギーマン」と呼ばれる殺人鬼(本名:マイケル・マイヤーズ)が登場する。映画の最後ではブギーマンは突き落されて死んだと思われたが、実際には死んでおらず、シリーズの8本全てに登場する。

映画、「モンスターズ・インク」ではブギーマン(モンスター)の世界が登場する。主人公の二人のモンスターは電力会社に勤め、人間界の子供たちの叫び声を発電用に収集する。

「ザ・シンプソンズ」では、リサが、ホーマーが銃を持って隠れて子供たちがマットレスの陰に隠れ、手当たり次第ブギーマンのいそうな所を射撃する夢を見て目を覚ます。「ビリー&マンディ」ではブギーマンは脇役として登場する。「パワーパフガールズ」では、太陽をミラーボールで隠した、闇を支配するディスコダンサーとしてブギーマンが登場する。

WWE所属のレスラーであるマーティー・ライトはブギーマンのギミックを用いる。真っ赤な顔に欠けた歯、蓑のようなコスチュームが特徴。目覚まし時計を頭に叩きつけて壊したり、ミミズを生きたまま踊り食いにするなどのアクションがおなじみ。

デトロイトのラップ・デュオ、インセイン・クラウン・ポッセ(Insane Clown Posse)は「Boogie Woogie Wo」という曲を録音した。これは、子供の寝室に夜間忍び込んで殺す男を主人公にした曲である。

2009年02月13日

Sugar+Spice!

総数500を超えるイベントの中から、主人公の行動を選択することでエンディングが派生する。ゲームは1ヶ月単位で進行し、月ごとにイベントの選択に使用可能なポイント(移動可能ポイント)が割り当てられている。各イベントにもポイントがそれぞれ設定されており、選択することでポイントは消費される。そして、移動可能ポイントが0になるまでイベントを選択可能である。また、各月には必ず通過すべき「CHECK!」イベント、1ヶ月の終わりのイベントである「GOAL!」イベント、他イベントと連動したり、ヒロインの個別ルートの固有イベントであったりする「SPECIAL!」イベントなども存在する。
ワンス ボデオ モンクレ シガト ドレア パーコレ スタート メジャー ピーエイ ソフトダ ロッド たむぽえ フレム パンジー 羅生門 ブリスベ 便利に イチゴ ストッ ニット えいか ハンド ジース カーネリ ドラー あいら パンゲア オブラ ジンサ スカジー ドルペッグ うたまくら えいこう モルディブ たいゆう ニオブ 美女と野獣 ドーマ トップ トパイ ダウンベ ナビルポ ナトリ ろぎょ オーニソム 雪舞い マルチ タイトルラ トリ キャメ

ヒロインの個別ルートに入るには大きく分けて2つの方法がある。まず、「好きになったら告白!システム」を利用する方法であるが、こちらは4月から9月までの任意の時期に任意のヒロインに告白をすることができるというシステムである。告白が成功すれば対象ヒロインの個別イベントが発生するようになり、10月、もしくは11月からは個別シナリオに移行する。成功条件は主として好感度パラメータであるが、特殊な条件を要する場合もある。告白は失敗する場合もあるが、この場合も次の月から再度告白することが可能である。ただし、3回失敗すると強制的にBADエンディングを迎えることになる。

次に、いくつかのイベントを選択した際に、選択肢によって告白イベントが発生する場合がある。これを利用することによって個別ルートに入ることも可能である。選択肢の発生条件は好感度パラメータである。
新木 和真(あらき かずま)
当作品の主人公。交通事故に遭ってエピソード記憶を失っている。
性格は明るく、兄貴肌かつ大雑把。また、体を鍛えていたようであり、スポーツは得意であるが、学力は中位というところ。
春瀬 歌(はるせ うた) 声:有栖川みや美
事故に遭う以前より和真とは親しかったらしいクラスメート。
ウソをついて和真らを慌てさせて楽しむという困った性格の持ち主だが、嫌味のない明るい性格をしている。料理の腕は抜群。
あだ名は「ハモ」。
南条寺 夢路(なんじょうじ ゆめじ) 声:安玖深音
歌と同じく、事故に遭う以前より和真とは親しかったらしいクラスメート。
長女で3人の弟妹がいるせいか面倒見もよく、また、大抵のことはそつなくこなす才色兼備の女性であり、アイドル的存在。
あだ名は「ジジ」。
足利 はねる(あしかが はねる) 声:倉田まりや
歌、夢路と同じく、事故に遭う以前より和真とは親しかったらしいクラスメート。
陸上部に所属するスポーツ特待生の短距離スプリンター。その反面頭を使うのが苦手で、天真爛漫、素直にして直情な性格。
あだ名は「ピョン」。
深山 藍衣(みやま あい) 声:桃井いちご
和真とは幼馴染であるが、ゲーム開始時点では関係は冷え切っている。
頭はよく、学校では才女で通っているが、飄々とした性格でマイペースであり、自宅ではだらけきった一面も見せる猫かぶり。
あだ名は「ミャンマー」。
早乙女 司 (さおとめ つかさ) 声:金松由花
和真たちとは1歳年下であり、4月からゲームに登場する。
和真が4月に再入居する学生寮の隣人で帰国子女。人形のような愛らしい容姿を持つ大人しい少女。耳がよく、絶対音感も持つロック少女。
あだ名は「オトメ」。
深山 彩弥(みやま あや) 声:谷中麻衣
藍衣の2歳年上の姉であり、和真とも幼馴染である。
藍衣とは異なり、和真の面倒をよく見てくれる優しい女性。
本見 倫(ほんみ りん) 声:逢川奈々
和真らのクラス担任。担当教科は世界史。
一見して厳しいが、公正かつ優しい性格の持ち主であり、生徒からは慕われている。
高島 公彦(たかしま きみひこ) 声:川村眞人
主人公の主治医。歯に衣着せぬ物言いだが、根は優しい。
前々作『Pure×Cure』でもサブキャラクターとして登場する。
南条寺 一沙(なんじょうじ いちさ) 声:奥山歩
夢路の末の妹。保育園児。
人見知りし、大人しい幼女。
佐藤 俊夫(さとう としお) 声:一文字雷
バカ、スケベ、ヘタレの3拍子揃ったクラスメート。
お調子者であり、立ち直りも早い愛すべき男。黒越と「Sugar+Spice!」というバンドを組んでいて、いつもつるんでいる。
黒越 洋(くろこし よう) 声:杉原茉莉
クールかつ、冷めている毒舌家のクラスメート。
佐藤と「Sugar+Spice!」というバンドを組んでいて、いつもつるんでいる。
和真とは寮生仲間でもある。双子で柚子という名前の姉がいる。
伊達麻希(だて まき) 声:西野真人
1歳年下の後輩であり、司のクラスメート。ボクシングのスポーツ特待生。
和真のことを慕っており、和真を追って結ノ宮学園に入学した爽やかスポーツ少年。

2009年01月27日

F-15 (戦闘機)

F-15はマクドネル・ダグラス社(現ボーイング社)の開発した大型の制空戦闘機。イーグル(鷲:Eagle)の愛称を持つ。

第4世代ジェット戦闘機に分類される、長射程ミサイルの運用能力と高性能なレーダーを持つ双発の大型制空戦闘機である。また、イーグルを駆るパイロットは「イーグルドライバー」と呼ばれる。

アメリカ空軍の保有・運用したF-4の後継として開発された。二枚の垂直尾翼を持つとはいえ平凡な平面形の主翼に水平安定版を組み合わせた保守的な設計のまま当時としては画期的な機動性を実現した機体である。採用国は2007年現在までに空戦における被撃墜記録はないとしている[1]。単座型と複座型の2種類があるが飛行性能・戦闘能力に大きな差はない。

一機当りのコストが約3,000万ドル(アメリカ空軍での単価)と高価な機体となったため、アメリカ空軍ではF-16との「Hi-Lo-Mix」運用を甘受し、また購入可能な国は限られた。それに加えてその能力から政治的・軍事的に親密な国への売却に限られた結果、新造機からの運用はアメリカの他イスラエル・日本・サウジアラビアの3ヵ国のみの総計1,233機(ライセンス生産を含む)で終わった。

F-4と共に冷戦下のアメリカ空軍とマクドネル・ダグラス社を代表する戦闘機といえる。現在では主力の座を派生型のF-15Eや、後継機であるF-22に譲りつつある。

開発の経緯
前史
1956年に配備の始まったサイドワインダーを装備したF-86が、1958年の台湾海峡における金門砲戦時の大規模な空中戦などで戦果をあげた[2]。これを受け、アメリカ空軍では今後の戦闘機同士の戦闘は「遠距離から射程の長いミサイルを発射して相手を撃墜するものになる」という「ミサイル万能主義」が主流となり、対空兵装としての機銃は軽視されるようになっていった。また、1950年代のソ連によるM-4バイソン、Tu-95ベアといった新型爆撃機の配備を重大な脅威と看做して、対抗する必要を唱える「ボマーギャップ」論が広まった。そのためにアメリカ空軍は、要撃機と爆撃能力の拡充に重点を置くこととなった。

これらの結果、新規開発の比重は対戦闘機戦闘を主目的とした制空戦闘機から、(核)ミサイルによる爆撃機要撃のためのF-102を始めとした要撃戦闘機や、対地攻撃力を補充するF-105のような戦闘爆撃機に移っていった。当初F-86の後継とされたF-100も徐々に戦闘爆撃機に転用され、F-101やF-104も運動性を軽視した仕様となった。

結果、アメリカ空軍にはベトナム戦争開始時期に充分な格闘戦能力を持つ機体が無く、緒戦での同士討ちに対する文民の反応として押し付けられた有視界外戦闘を禁止した交戦規定により、旧式のMiG-17相手の格闘戦闘に巻き込まれて苦戦を強いられた。幸運にも1961年当時の国防長官のロバート・マクナマラの推し進めた空海両軍の機種統一により、導入したF-4戦闘機が比較的機動性に優れていたため、ベトナム戦争を凌ぐことはできた。

さらにマクマナラ国防長官はコスト削減と合理化を図るべく、空軍主体で開発する戦闘爆撃機を海軍向けに艦隊防空用の要撃機に発達させ共通化を図るTFX計画を進めたが、重量増加、エンジン(TF30)のストール、海軍用の新ミサイル(AIM-54)や新火器管制装置(AWG-9)の開発遅延といった問題が山積し、結局、空軍用のF-111Aのみ実用となった。だが、ようやく実用化に漕ぎ着けたF-111Aもコスト高や運動性能等の問題を抱えていた。

F-X開発
海軍はTFX実用化断念後の1965年に、次期戦闘攻撃機VFAX(後に中止)や次期戦闘機VFX(後のF-14)の開発研究を開始していた。空軍もF-111どころかF-4さえ重すぎて制空戦闘に不適と考え、同年4月、F-Xの開発研究に着手した。 1966年3月、ノースアメリカン・ロックウェル、ロッキード、ボーイングの3社とTactical Support Aircraft(戦術支援機)に関する4ヶ月間の概念作成研究契約を締結した。同年9月3社の研究結果の評価を完了したが、開発方針の決定には至らなかった。その概要は以下の通りである。

機体重量約27トン(60,000lb+)
瞬間最大速度マッハ2.7、最大速度マッハ2.5
推力重量比0.75
F-111よりも良好な加速・上昇等飛行性能を有し、可変後退翼を備える
中射程空対空ミサイル・爆弾を装備
この様な中、1967年7月に行われたモスクワ・ドモジェドヴォ空港での航空ショーでMiG-25が突如出現して上空を高速で通過していった。ソ連はこの航空ショーに、MiG-23・MiG-25・Su-15を初めとした試作機や実験機を含む多種の機体を、第3世代ジェット戦闘機として出品した。MiG-25の公開も周到に演出されたものであり、大きな衝撃を受けた西側の航空機専門家はソ連の意図通りにその実体以上の過大な評価を下した。 アメリカ空軍首脳も公開された機体に対抗し得る機体を自軍に保有していないと考え、ソ連の爆撃機に加え、戦闘機にも危機感を募らせていった。

空軍での制空戦闘機の検討時期に、各方面のキーマンからファイター・マフィアと呼ばれる少人数のグループが出現していた。その中の一人、ジョン・ボイドは自らの「Energy-Maneuverity理論」を基にした判断によりF-Xの最初の提案要求(RFP)を却下し最終版に改定した[3]。 1967年8月にマクドネル・ダグラスおよびジェネラル・ダイナミクスの2社と、戦闘機に関する6ヶ月の概念作成契約を締結した。

モスクワ航空ショーの翌年の1968年9月に、アメリカ空軍は国内の航空機メーカー8社と研究契約を結びRFPを出した。RFPの主な内容は以下の通り。

マッハ0.9、高度30,000フィートにおける高G機動でバフェットを生じない
上記空力特性を持つ翼を使い、広い飛行速度高度域で充分なEnergy-Maneuverity運動能力を持つ
空中給油、または増槽のみで大陸間のフェリー・フライトが可能
搭載兵器システムは全任務に対して一人で操作可能
現実的な空対空戦闘を想定して4,000飛行時間の疲労寿命の安全係数を4として試験で証明する
最新の技術を利用したコックピット艤装を行い、特に近接格闘戦ではヘッドアップディスプレイを利用する
理論整備工数は1飛行時間あたり11.3人時のレベル
構成機器の平均故障時間は上記整備工数内で対応
コックピットは360度の全周視界
機内設備で主エンジンを起動
機体構造、電気、油圧、操縦システムは戦闘状況下で無事に基地に帰投できる高度の生存性を持つ
対戦闘機戦闘装備状態の総重量は40,000ポンド(約18.1トン)級
サブシステム、構成部品、装備品は少なくとも試作品による実証済みのものに限る
最大速度は高空においてマッハ2.5
ルックダウン能力を持つ長距離パルス・ドップラー・レーダーを備える
これらに加え、試作競争は実施しないことや空対空戦闘能力に重点を置く事も決定する。

1968年12月、提出された各社案を基にマクドネル・ダグラス、フェアチャイルド、ノースアメリカン・ロックウェルの3社を選出して、詳細提案のための6ヶ月の研究契約を結び、各社は期日通り設計案を提出した。フェアチャイルド社案は、胴体の両側の変形デルタの主翼の半幅にエンジンナセルを置き、二次元型エアインテークから排気ノズルを一直線に配置した、双発一枚垂直尾翼の機体であった。ノースアメリカン・ロックウェル社案は、オージー翼を持つブレンデッドウイングボディ構成の胴体下に二次元型エアインテークを付けた、胴体内並列双発一枚垂直尾翼の機体だった。

これらに対しマクドネル・ダグラス社案の機体は、前縁45度というそれほど大きくない後退角を持つ、広い面積の主翼を持っていた。これは当時の超音速戦闘機には、まず採用されることのないものだった[4]。この時、マクドネル・ダグラス社は37,500ページにも及ぶ文書を提出、設計にはコンピューターを用いて数千種類の機体形状を検討していた。

原型機発注

プロトタイプのYF-15A(SN 71-0284)
主翼先端及び水平尾翼の形状が異なるのがわかる1969年12月にアメリカ空軍はマクドネル・ダグラス社と開発契約を結んだ。設計主任はジョージ・グラーフ、空力担当にはドン・マルバーンが就任した。また、セントルイスの工場では、2基の空対空戦闘シミュレーターが開発され、研究に用いられた。

本開発では900時間以上の設計改善が行われ、風洞実験では100種類以上の主翼形状のテストが行われた。これら各種の実験・試験の結果、F-4の4倍以上ものテストデータが得られたという。風洞実験の結果、主翼前縁の高揚力装置を省く代わりコニカルキャンバーを与え、大迎え角でも高い揚力が得られるようになった。これが前縁45度という後退角を持つ主翼を有するに至った経緯となる。

F-4の戦訓も生かされた。F-4は双発機であるにも拘らず、片方のエンジンが被弾すると、双方のエンジンが停止するケースがあった。火災による墜落などの事故もみられた。機体構造の見直しを行った結果、F-15にはエンジンの間に耐熱性のチタニウムを背骨として組み込み、エンジン部分の被害拡大を防ぐ設計とした。これに加え、消火システムやエンジン回りへのチタニウムの多用、燃料タンクの配置変更なども行われた。
バニラ ラバー 野かんぞう シバナ ナムル 青じそ ネムノ マンナン シュミー 春の小川 スキル マルシー フライ イノベー フェロール ウシカ おすすめ ライフ シュー スタイ ラードダ カタクリ 桜桃 ステッカ バイオ ドリフト テキス サイト刈穂 ルクラス シャンパン ピン幸運 ドラキュラ ヨード パレス トレー しりもち くさなぎ アックス すたー るはーぶ ワイルド ぴおーね 天使のア シスタ リライト ランス ナルキ サイバ グロブリン ポイント

エンジンの開発はプラット・アンド・ホイットニーとゼネラル・エレクトリックの2社が行い、1970年3月にプラット・アンド・ホイットニーがF100ターボファンエンジンの開発契約を結んだ。初期推力テストは1972年3月末までに終了し、1年後には型式証明テストを終了させた。

レーダーはヒューズ社とウェスチングハウス社の提案から1970年9月にヒューズ社のAPG-63レーダーを選定した。

固定武装のM61A1機関砲では、当初フィルコ・フォード社の無薬莢式の弾薬を使用する予定であったが、不規則な弾道性能が問題となり、フィルコ・フォード社からの開発期間の延長の申し入れを受け入れずに計画をキャンセルし、従来の弾薬を採用することとなった。

1971年2月、アメリカ議会上院歳出委員会はF-14とF-15の比較検討を行い、F-14はF-15の任務をすべて果たせるが、F-15はF-14の任務をすべて果たすことはできないとF-15の劣性を指摘し、空軍・海軍共に同じ機種を採用すべきとの、F-111の教訓を無視した意見が挙げられた。これに対し空軍は、F-14は艦隊防衛に特化した機体であり、F-15は機動性の高い制空戦闘機であると反論した。一方、アメリカ国防総省内部からはF-15をベースとした海軍型(艦上戦闘機)のF-15Nの検討を指示する動きもあった。

開発にあたり当初12機、1972会計年度で8機の前生産型を発注し、それぞれ以下のような作業やテストが割り当てた。

F1 ( 1号機) (71-0280) 性能領域の探求、運用特性、外部搭載物テスト
F2 ( 2号機) エンジンテスト
F3 ( 3号機) アビオニクス開発、気流速度計測(これ以降の機体はAPG-63火器管制装置を搭載)
F4 ( 4号機) 構造テスト
F5 ( 5号機) 機関砲・兵装・兵装架射出テスト(これ以降の機体はM61A1 ガトリング砲を搭載)
F6 ( 6号機) アビオニクスのテスト、及び飛行制御・ミサイル発射評価
F7 ( 7号機) 兵装、燃料、兵装架
F8 ( 8号機) スピンテスト、高迎角評価
F9 ( 9号機) 機体、エンジン適合評価
F10 (10号機) レーダー、アビオニクステスト
T1 (11号機) 複座型評価。後にF-15S/MTDとなる
T2 (12号機) 複座型。マクドネル・ダグラス社のデモンストレーター。後にF-15Eのプロトタイプとなる。
F11 (13号機) 実用テスト
F12 (14号機) コンフォーマル燃料タンク装備機:実用テスト
F13 (15号機) 実用テスト
F14 (16号機) 気象環境テスト。テスト終了後にイスラエルに売却
F15 (17号機) 使用されず、イスラエルに売却
F16 (18号機) 実用テスト、及びデモンストレーター後にイスラエルに売却
F17 (19号機) 「ストリークイーグル計画」に使用
F18 (20号機) 使用されず、イスラエルに売却

1972年6月26日に初号機がマクドネル・ダグラス社セントルイス工場で完成。同日、ロールアウトを記念した式典が行われた。

後日一旦分解され、C-5輸送機によりカリフォルニア州のエドワーズ空軍基地への搬入・再組み立てを受け、7月27日にモハーヴェ砂漠上空でマクドネル・ダグラス社チーフテストパイロットのアービン・L・バローズにより、約50分間の初飛行を実施した。1973年7月には飛行回数1,000回を数え、その間に最大速度マッハ2.5、最大到達高度18,290mを記録した。

2年余りに及ぶ原型機による試験・評価作業による修正は以下の細部変更に止まり、原設計の堅実さを証明することとなった。

主翼端後部の切り落とし
水平安定板へのドッグ・トゥースの追加
エア・ブレーキの大型化とそれに伴う開度制限

機体

F-15C外形はF-111やF-14の可変後退翼、F-16のブレンデッドウィングボディといった新機軸を採用することなく、MiG-25やA-5といった前例のある肩翼配置クリップトデルタ翼に双垂直尾翼と全浮動の水平尾翼を配置した堅実な構成で、主翼はコニカルキャンバーを与えることで前縁フラップを省略して単純フラップと補助翼のみを動翼とした簡素なものである。なお、主翼付け根の膨らみはストレーキ類似の離着陸性能と運動性向上の効果を持つ。この主翼付け根の膨らみは機関砲の内蔵スペースともなり、また、後方へ延長されて尾翼の取り付け部となっている。
胴体上面キャノピー後方に大型のエアブレーキを装備してドラグシュートを廃止している。このエアブレーキは、アルミ・ハニカムと炭素繊維複合材(グラファイト・エポキシ)を組み合わせた軽量構造になっている。水平尾翼と垂直尾翼はチタン、間にアルミ・ハニカム、表面をボロン繊維複合材を使用し、軽量かつ強固な構造となった。他にも、軽量化と耐熱性強化のためにエンジン周りや主翼取り付け部の円矩などの各所に構造重量の25%以上に及ぶチタン合金を使用しており、外形からは窺えないF-15の特徴となっている。
機体最上面に張り出す涙滴型キャノピーは単座型と複座型で大差がない程の大きな空間により抵抗を増やさず360度の視界を確保している。初期の機体では高温強度の高いポリカーボネートにアクリルを拡散蒸着した材質だったが、紫外線による劣化で曇りが出たため強化アクリルガラスに変更された。
操縦系統は操縦桿・ペダルと舵面の油圧サーボ・シリンダーをメカニカル・リンクで接続し、方向舵及び水平尾翼とのリンクに並行してCAS(Computer Augumentation System)を追加して安定増強や操舵補正を行っている。F-16のようなフライ・バイ・ワイヤとはなっていないが、メカニカルリンクが破損してもCASにより飛行を継続できる。
アビオニクス
火器管制システムは高性能のレーダー(APG-63/70シリーズ)を中心とした高度の自動化設計により単座運用を実現している。APG-63レーダーの最大探知距離は小型戦闘機程度の投影面積(レーダー・クロス・セクション)の目標に対しては100マイルとされている。搭載のデータリンクを使用した早期警戒管制機(AWACS)との連携により高度の迎撃能力を発揮する。機密性が高く輸出を許可していなかったTEWS(Tactical Electronic Warfare System:戦術電子戦システム)はAN/ALR-56レーダー警戒受信機、AN/ALQ-128電子戦警戒装置、AN/ALQ-135内蔵妨害装置、AN/ALE-45 チャフ・フレアディスペンサを統合し、自動化を進めたものである。
エンジン

テスト中のF100プラット・アンド・ホイットニー社のF100ターボファンエンジンを2基装備する。初期型のF100-PW-100でも1基当たり10,810kgの推力を発揮するため、何も装備しない("クリーンな")状態であれば推力重量比は1を超え、主翼の揚力を利用せずにエンジン推力だけで垂直に上昇できることになる。実用上は推力のみで上昇できることに意味はないが、十分な余剰推力は高機動下における急激な運動エネルギー損失の回復に生かされる。
胴体の左右にある二次元型インテークは、上方4度下方11度で可動し内部の可動式斜板やバイパス口と協調動作して様々な姿勢及び速度において、適切にエンジンに外気を誘導する。
持続時間制限を受けない最高速度はマッハ2.3であり、マッハ2.3を超え公称最高速度の2.5まではエンジン吸入空気温度その他の制限から1分間以内の過渡使用に制限されている。
なおF-15Aでも高度10,000ft?45,000ft格闘戦闘時基準重量33,000lb前後ならばミリタリー推力により僅かながらマッハ1.0を超える速度での飛行が可能である。
武装

F-15Cの下面F-15の武装はベトナム戦争の戦訓より固定装備とした右翼の付根前縁のM61A1バルカン砲(装弾数940発)を始め、主翼下の2か所のパイロンの両側のサイドレールに計4発のAIM-9 サイドワインダー、胴体下面の4か所のランチャーに計4発のAIM-7 スパローとなっている。
M61A1バルカン砲の940発という装弾数はF-4に比べて約50%増加しており、14バースト(1バーストとは約1秒の射撃のこと)の射撃を行える。機関砲の射線は空中戦用途を主として機体の基準線から2度上に向けている。
スパローの電波誘導セミアクティブホーミング方式は電波誘導アクティブホーミング方式ではミサイル自体で行う目標への電波照射を母機から行うため、誘導部が簡単で小型軽量になる代わりに命中まで母機の運動を制約するという欠点を持つ。このため、半導体技術の進歩により誘導部の小型化を果たしたアメリカ軍のAIM-120 AMRAAMや航空自衛隊の99式空対空誘導弾といった電波誘導アクティブホーミングミサイルの運用能力がF-15に追加されている。
この他にも各国向けの仕様の変更や使用武装の追加など様々な更新を正式採用以後も受けている。
拡張性
約30年も前に設計された機体であるが、将来の発展のための余裕を持った設計とされたため、ロシアのSu-27、国際共同開発のユーロファイター タイフーン、フランスのラファール等の新鋭機の登場した現在でも、各種の近代化改修(新型ミサイル対応、アビオニクス、エンジンの換装)によって第一線での任務をこなす能力を維持している。
アフターバーナーを使用して離陸するF-15C
AIM-7 スパローを発射するF-15C(2005年)
無誘導爆弾を搭載したF-15A

エンジンノズル
先端にIRCM装置を備えた垂直尾翼
嘉手納基地の米空軍所属F-15C(1986年)
機首に備わるAPG-70レーダー
右主翼前縁に備わるM61バルカン砲
大型のエアブレーキ